メメント・モリ
残念ながら、ミスチルの話ではなく「メメント・モリ=死を想え」というラテン語のほう。
「乳がん」という病気になって、「死を想う」というコトが半ば日常になったトコロもある。
でも、先日名古屋大学での「オープンレクチャー」での、「血管再生医療の話」などを聴講すると、実は「癌という病気は、世間で言うほど悲しい病気ではないのかもしれない」、と思う部分もある。
というのも、生活習慣病の一つである「糖尿病」などに比べると、はるかに人らしさが失われにくいような気がしたからだ。
「糖尿病」というと余りにも一般的なので、深刻な病気だと思っていない方も多い。
しかし進行していくと、血液が流れないために起こる細胞の壊死による両足の切断や、失明といったことが起きてしまう。
人にとって当たり前の「歩くこと」や「モノを見ること」が、出来なくなってしまう病気なのだ。
しかも癌と違い、発症年齢は高齢者とは限らない(「子宮頸がん」や「乳がん」など女性の癌以外の平均的罹患年齢は60歳以上)。
最近問題になっている子どもの糖尿病などは、一度罹患すると一生付き合っていかなくてはならない。
毎日のようにインシュリンを計り、食生活の制限をし、場合によっては投薬もほぼ一生という可能性がある。
進行を防ぐために、キチンと守らなければならない約束ごとも多く、場合によってはそれが行動制限となる場合もあるはずだ。
にもかかわらず、「糖尿病」を軽く考えてしまうのは、「死を思う病気ではない」という社会認識があるからだろう。
それに比べ「癌」という病気は、死を思いながらも緩和ケアなどのサポートを受けながら、自分らしさを失うことが少ないといわれている。
多くの場合、自分の意思と行動が制限されるコトは少ないようだ。
であれば、なぜ「糖尿病」よりも「癌」が悲劇的な病気と受け止められるのか?と、考えるとそれはやはり「死を思う病気」だからなのだと思う。
今の日本の社会は「ノーリスク社会」と言われている。
「ノーリスク社会」とは「リスクが無い社会」ではなく、「リスクを見えにくくしている社会」という意味。
その最たるものが、「人の死」というコト。
でも「死」というコトは、それほど悪いことなのだろうか?と、考えてしまうのだ。
というのも「細胞の死」というコトは、毎日起こっていること。
一番身近なところでは「垢」というコトになるのだけれど、実は髪の毛も爪も細胞としては死んでいる状態。
逆に死ぬことが無い細胞が、癌という病気。
そうやって考えると、最近何かと話題になっている「アンチエイジング」の究極のカタチというのが、「がん細胞」というコトになる。
安易な発想の「アンチエイジング」は、単に若さの維持だったりするのだけれど、それってはとても歪な発想、というコトになる。
それに気づかずに、「アンチエイジング=若さの維持」ばかりを追い求めている、今っておかしいはずなんですよね。
大切なことは、若さの維持ではなく健全な年の取り方や健康的な死に方なのでは?
「死を想うこと=メメント・モリ」の発想とは、「如何に自分らしさを大切にした、生き方をするのか?」という実は、とても前向きな考え方のような気がするのだ。
社会生活の中で、「自分らしさ」を追及していけば、社会の中で衝突することも度々とある。
むしろ、衝突しないよう我慢をし、時には自己犠牲を払うことで、上手に社会生活と折り合いをつけている、という場合のほうが多い。
でも・・・少なくとも、思考だけは、自分らしさを忘れたくない、と思うようになったのは、やはり自分が「乳がん」という病気を得てからのこと。
「メメント・モリ」という言葉はラテン語だが、日本にも「死を思い、今日を生きる」という言葉もある。
ただ問題なのは、日本の社会が「癌=死にいたる病気」という思考で、止まってしまっていることなんだと思う。
ちなみにミスチルの「花-メメント・モリ-」は・・・↓
ミスターチルドレン「花」
この曲は、写真家・藤原新也さんの写真集「メメント・モリ」から着想されたそうです。
藤原さんの作品は、駒ヶ根高原美術館の常設展示として見られるそうなので、ご興味のある方は是非・・・。
No title
メメント・モリ(死を想え)
懐かしいですね(((((;゚Д゚)))))
昔、変なタイトルの本が雑貨屋で売られていたので
何となく購入した本がメメント・モリでした(~_~;)
内容と写真を見て驚きましたけど・・・(;0;)
(鳥葬や火葬・狼に・・・リアルな写真に●█▀█▄)
>「ノーリスク社会」とは「リスクが無い社会」
>ではなく、「リスクを見えにくくしている社会」
>という意味
これは勉強になりますね(^m^)
間違えた意味を覚えておりました(;m;)