がんと向き合うこと
「がんセンター」での研究所見学やパネル展示、そしてつききりで説明をしてくださった研究員の方。
日曜日の講演会のお話しなど、聞けば聞くほど「がん」という病気は、とても個性的だということ。
「個性的」という変な感じを受けるかも知れない。
でも、「がん」という病気が、「細胞」に関わる病気だということを考えると、細胞で構成されている人そのものに関わるモノだという気がしてくるのだ。
「アピタル乳がん夜間学校」の第1時限目で、聖路加病院の先生が「一人じゃないんです。でも、一人なんです」とお話をされたのは、「がん」という病気と闘う(共存か?)するためには、家族や親しい人、主治医などと一緒になって、立ち向かわなくてはならない。
でも、患者一人ひとりの症状や置かれている状況は、まったく別々。
だから「人と比べることが出来ない」というコトを話されたのだと思う。
日曜日の講演会でも「人と比べないこと」という点を、高野先生だけではなく小松先生も強調されていた。
そのために必要なことは「自分の病状をキチンと把握するコト」が、何よりも大切だし、それが「がん」という病気と向き合うスタートになるともお話しをされていた。
と同時に、がんセンターの研究員の方や高野先生、小松先生もお話しされていたのは、「がんという病気は、誰もがなる病気になりつつある」という点が社会認識されていない、というコトも強調されていた。
日曜日の講演会に先立ち、愛知県がんセンターの田島所長さんが挨拶をされたのだが、その時お話しをされていたのも「今や成人男性2人に1人、亡くなる方の1/3はがん。長寿大国・日本だからこそ、がん研究が進んでいかなくてはならない。現在の治療成績(?)は60%程度の生存率があり、将来は80%になるよう、がん発生のメカニズムや治療薬、治療法などあらゆる研究を進めている」と、お話しをされた上で「でも、社会的な認識ではそこまで来ていないのが現状」だともお話しをされていた。
同様の思いは、研究員の方も危機感を持っていらっしゃるようで、そんなお話しもさせていただいたのだった。
個人的には、メディアの影響、特にドラマの影響が強いように思っている。
なぜなら、「余命○○」と告げられる病気は「がん」しかなく、その余命の時間に、家族の絆や再生、恋愛と死、恋人との別れと思い出などなど・・・そこには、ドラマチックな要素が満載できるからだ。
戦前の「結核」と、似たところがあるように思う。
「結核」の場合、「ペニシリン」という特効薬が登場し普及したことで、「怖い病気」ではあるが、その意識は薄れつつあるのでは?
そんなイメージを変えていくのは、もしかしたら患者自身なのかも知れない・・・と、思っている。
実は、乳がんのことを書き始めてから時折、メールや鍵コメで「乳がん」についての相談を受けることがある。
一人の「乳がん患者」として、お答えをさせていただいているつもりなのだが、メールやコメントを下さる方々の状況は、それぞれ。
精密検査中の方もいらっしゃれば、既に手術をされた方もいらっしゃる。
精密検査中に転移が見つかったという方もいらっしゃった。
とすれば、「私の場合」だけでは、お返事も不確かなことになってしまうのでは?という気がしている。
むしろ、「元気な乳がん患者」として、シッカリ勉強しなくては!という思いが、「がん」という病気に対する好奇心とともに強くなっているのだ。
そして今年は、名古屋で「第70回日本癌学会学術総会」や「第49回日本癌治療学会学術集会」が来月行われる予定になっている。
この時だからこそ、私は「自分のがん」と言う病気とキチンと向き合うために、出来るだけ市民講座へ出かけたい!と思っている。
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